今日はいじめや嫉妬嫌がらせの心理について以前アメブロに書いていたものを
加筆修正してこちらに書いてみたいと思います。
みなさんは陰湿な嫌がらせを受けたり、
嫉妬や妬みでイヤミを言われたり
SNSでわざわざ書き込みされたり、
事実無根の風評を流されたり、
そんな経験をしたことがありますか?
私も事実無根の言った覚えもないデマ情報をある方を通じて他団体や私の受講生や親しい人たちに意図的に流されて、いきなりセミナーやワークショップのキャンセルが1日で10件来た時もありましたが、いやあ~キャンセル10件いきなり来たときはさすがに私でも凹みましたよ。そしてびっくりするのがそれを意図的に流した人の多くは、かつて私と親しかった人たちで最近疎遠になっている方達だったのです。これにはほんとうにびっくりしました。
多くの場合はそんなとき人は、相手を加害者、自分を被害者という立場に置いてしまいがちになります。
この人はいったいなぜそんなひどいことを言うのだろう?
どうしてそんなことをするなんて、何のために?
という相手に対する責める気持ちが前面に出てきやすいのですが、、、
でもね、そこからやはり学ぶことってあるんです。
ああ私がこの人達にとって、
「大好きだったのに自分の思い通りに自分のことを大切にしてくれなかった」とか
「大好きだったのにあまり振り向いてくれなかった」とかそういう気持ちが見え隠れしているのです。
でもだからといって「そうかあ~ごめんよ~」というわけでもなく「嫌なことは嫌、そういうコミュニケーションゲームには乗らない」という意志を持つことはとても重要だと思います。いくら大好きだったという理由で嫌がらせをしてきたとしてもそれを受け取るわけにはいきません。
でもどうしても許せない!という気持ちがあるときはどうしたらいいか??
そういうときは一歩進んでちょっと立場を変えてこう考えてみます。
この人の心のなかでいったいいま何が起こっているんだろう?と。。
そう、何か?が起きているんです。
しかしこれは何も特別なことではありません。
この嫉妬や妬みやいじめや意地悪などなど、
これって特定の誰かだけにあることではなく私たちの誰にでもある感情なんです。(゚∀゚)
それは人間だから。
感情というものを持つ生き物だから。
感情は犬にもあります。
たとえばある家族が2匹犬を飼っていて2頭目の子がまだやんちゃで手がかかるけどまだ子犬だからみんな家族がこの子を可愛がる。
すると陰で、もう1頭の子がストレスで2頭目の子犬を嫌がらせしていじめたりします。
犬猫でも嫉妬やいじわるをするんです。
犬猫は人間のようにウソをつけないし、表裏はないので素直で正直に行動します。(笑)
犬とは違い人間は悪意を隠して振る舞うことができる、
その違いくらいだと思います。
私たちは人間である以上、良心も悪心も両方持っている、という前提を持っている方が楽です。
相手の中に腹黒さを発見したら、自分の中にもあると思った方がいいかもしれません。人は鏡のように相手を映し出すというミラー細胞があります。自分の中にないものを見てもざわつかないはずなのです。だから同じ人を見ても嫉妬する人としない人がいるという現象は、自分の心の中に秘密が隠されていると考えるわけです。
ところで、最近サイコパスという特殊なパーソナリティの事がよく問題になっていますね。
サイコパスとはまったく人の痛みに共感できず、搾取したり、良心がなく、平気でうそをつき、他人を貶めたり、痛めつけることになんの罪悪感も感じない、肥大した自尊心と過大な自己評価ゆえに、他者との関わりが持てなくて孤立しがちという人物像ですが、個人差もあります。
私は自己愛性パーソナリティ障害と
反社会性パーソナリティ障害と
妄想性パーソナリティ障害、
この3つが強烈に組み合わさった場合このサイコパスという状態になると定義しています。
相模原市の障碍者施設で起こった殺人事件、これもサイコパスという人格障害者が起こした事件だと言われており、あるいは「双極性障害ではないか?」という話もあります。真実は定かではありませんが。。。
サイコパスはなにも特定の人だけに起こるものではなく、私たちもその要素を持っています。
犯人はなぜ弱い者を社会から執拗に排除しようとしたのか?
私はこう思います。
犯人は
自分の弱さを隠したい。
自分の弱さを認めたくない。
自分の弱さを徹底的に否定し拒絶する。
だから他人の中に弱さを見つけると、それを徹底的に否定し排除したくなる。
それは大きな自己愛の傷つき。
幼少期何があったのか?はわかりませんが、私は彼はかなりきついネグレクト〈無関心無視〉を受けてきたか?あるいは、どちらかの両親に甘やかされて過保護に育ちその結果社会性の欠如から人生を挫折、のどちらかではないか?と感じております。
ほんとは自分の無力感や無価値観なのに、他人の弱さの中にそれを見つけては否定し、嫌がらせやいじめという形で陰湿な行為を行う。相模原事件の犯人はその証拠に、大きな入れ墨を掘っては自分という存在を誇大に見せようとしていました。
それは自分という存在の希薄さや自分を認められない無価値な自分というものを無意識の根底では感じているのですが、
それを認めたくなくて、徹底的に否定するために、王様のような誇大妄想的なセルフイメージを作り上げ、自分の中にある弱さを否定したいがために、他者とくに自分より弱い者を圧倒することでオレは素晴らしい!私は素晴らしい!と思いこもうとします。
他者を否定し他者に勝利することで私は特別な人間だと自己肯定できる。
そうやって自己愛の傷つきを回復させようとします。
とくに他者よりも常に勝っていれば自分という人間は生きる価値があるのだ、と無意識に感じて他者をこきおろす傾向があればその要素はかなり強いとみていいと思います。
それは口に出す、か出さないか?というレベルの話しではありません。
口に出さないけど、あいつがいなければ私は、、、と思っている方が問題が大きいのです。
要するに見た目は華やかキラキラ、でも心の中は真っ黒けという状態。
相模原事件の事が特殊なことのように思いがちですが、誰しも自分の中に
このサイコパスの要素はあるのだと思った方がいいですね。
人間だれしもシロもればクロもあるのです。
問題は自分の中の黒を黒はない!と認めないこと。
近所の悪口から嫁姑のいじめや学校のいじめやパワハラやモラハラや陰湿な噂や風評を流す人、これらも根本はまったく同じなんですね。自分の中の淋しさや悲しみや怒りやみじめさ、それらが自分の中にあることを否定して他人に投影しては他人を否定し排除しようとする。
それって自己否定なんですよ。
いじめや嫌がらせの根本にはかならず背後に無価値感や淋しさや悲しみがある。
本当は誰かに愛してほしいのに、
本当は誰かに認めてほしいのに、
その淋しさや悲しみを自己否定して認められない。
そんな自分を認めてしまったら負けになる、生きる価値がないと感じてしまう、
だから弱い人間を抹殺したくなる。
弱い人間を見るとイライラする。
それは自分の弱さの投影。
自分の弱さを肯定できない弱さ。
いじめや嫌がらせをする人ほど弱い人間だ、とよく言われるのは本当の話しです。
だから、もし、自分の中にも弱さがあると認められたら他人の弱さを見つけても許せるようになります。
向かうべきは他人ではなく自分の心。
自分の中の弱さや怒りや腹黒さ、淋しさや孤独感や悲しみ、無価値感、それらを正面から受け止められる人間こそが強い。それらの感情にフタをして否定することが積もり積もると犯罪にまで進んでしまう可能性を今回の事件は警告しているのだと感じました。犯罪者になるかならないか?は紙一重。私たちの中にサイコパスの芽は潜んでいます。